唐突に新企画記事です。
9/5に「私の最高の×××」というタイトルでMCをする縛りが入ったことをきっかけに、ふと思い出すことが多かったので、標記の事項についてどうでもいいことをメモ的に書いてみます。
この年は、諸般の事情で1年で20000マイル貯めるぐらい東京沖縄を往復していました。
現地では人の車に乗せてもらう以外はバスで移動していました。(モノレールはまだない)
もちろん私の記憶が消滅する前に、という残念な事情もあります。
ではばらばらと。事実誤認が判明しだい訂正します。
・人生初沖縄であった1998年2月に名護に宿泊。ホテルゆがふいんおきなわが日本ハムファイターズのキャンプに使われていたので名護キャッスルホテル(たぶん、古めかしいがアメリカーな感じのホテル)に宿泊。マスコミが同宿していて木佐アナウンサーが朝食の際に「上田監督の散歩が」とかいう話をスタッフとしていた。
・同出張は本部町の海洋博公園がらみの仕事。1泊は取引先の紹介の民宿だったが、急須がブリキ的な素材、机は折り畳みというヤバい感じで、シャワー付きの特別室だったがカビまみれ。浴槽的なものは各フロアの外階段に置いてあったが使われていなかった。朝食のポーク炒めが死ぬほど薬物臭がキツく半分残す事態。
・同宿を脱走しベルビューというホテル。きれいでよかったがバスルームと寝室の仕切りが透明ガラスといういかにもラブホ転用な作り。
・業務終了後本部から名護までタクシーに乗り、タクシーで「今日中に那覇に戻りたいです」と運転手に相談したところバスターミナルの入り口のところで出発しかかっていたバスを止め乗るように手配してくれる。有難かったがバスに乗る前に食べ物を買おうという構想が崩れ、すでに高速バスもなくなった時間のため2時間以上ホールズをなめて空腹をしのぎながら路線バスで移動するハメに。バス運転手には「帰省かい、大変だね」と話しかけられたが腹の足しにはならずあいまいな回答しかできなかった。
・当時CoccoやKiroroが大ブレイクしていたが、前者は基地外扱い、後者はまんべんなく愛されている感じだった。どこかでインディーズ時代の音源を必ず聞かされた。キーボードがベロベロ。
・自販機ではレモンティーの人気が他の紅茶を圧していた。安めの食堂で、粉末を溶かしたようなレモンティーを無料で飲ませる店があった。
・Aサイン系のちょっと高そうなステーキハウスにノンアルコールカクテルがあり、店の重たい昭和的ゴージャス感を追求した雰囲気のわりにおしゃれ感ありで印象に残っている。
・タクシー運転手の人間力がすごいが、不味い方向に行くと「風俗店(ちなみに通常24時までの経営だが、裏営業とかでなく「地域特性による管区の警察トップによる判断」(店員談)で28時までの営業がおおっぴらになされていた)などへタクシーで行くとマージンを抜かれ高くなる(それを避けて店が迎えにくる)、観光客と見ると容赦なく回り道」などの、(ススキノまわりでもあるが)雲助系になる。あとホテルが呼んでいるわけではないのにホテル前待機している車もやばいので、なるべく道で流しを拾うようにアドバイスされる。
・県立博物館が首里にあった。県外から来客が来ると県立博物館に行く習慣があるっぽかった。
・「琉球酥本舗」という菓子店がパレットリウボウにあり、これが県内での手土産菓子としては最高級と言われた。
・沖縄市泡瀬地域に大ラブホテル街があり、車でしか入れない。免許を取るとここをドライブする高校生が多いとの話。「たぬき」というホテルが伝説的に古めかしく笑いの対象となっていた。
・親戚が獲ってきたマグロ、というものを人の家で食べた。
・那覇市小禄地区が、新興住宅地でちょっとおしゃれと言われていた。
・佐敷町のあたりは顔の濃い美女が多いと言われていた。
・すぐ隣で雨と晴れが分かれる気候が多く58号線で宜野湾手前でスコールに遭うと「大謝名あたりは晴れている」とか言われ狐につままれた気分となった。
・模合という頼母子講みたいなのがあり、これにいくつか入るのが「正しい市民」としての信頼がある証明のようであった。若者だと同窓会的なものを兼ねる感じ。文具店で模合用の集金袋を販売していた。
・冬には国際通りを暴走族が疾走し夜中うるさかった。
・沖縄第一ホテルという那覇市安里にあったホテル(2017年現在では牧志に引っ越しているそうです)で、沖縄の食材を使った豪華かつ健康によい朝食というのを売りにしていて、2500円以上したが、観光客だけでなく地元の金持ちそうで意識高そう、つまり上流階級な感じな婦人たちが愛用していた。
・A&Wというハンバーガーショップの牧港店で「駐車場で注文し運んでもらって車内で食べる」という形態の店があった。地元のやや「意識高い」若者にはモスバーガーの人気が高かった。
・知り合いの知り合いぐらいで幸福の科学にはまって書籍を大量に配っている人がいた。
・「失業率●%」というステッカーが主要通りの道筋にたくさん貼ってあり怖かった。たしか選挙がらみのキャンペーン。
・那覇空港が小さくて妙に薄暗く、東南アジアの地方空港っぽかった。水槽が置いてあった。
・「ちんだみ工芸」とかいう三線の店が国際通り沿いにあり、三線の無料体験をしていた。2回行ったが那覇市出身の大学生(首都圏に通学)と一緒になったときは、明らかにそちら優先だったがこちらにも炒め物をふるまってくれた。ここで買ったCDは工工四つきだったが、声変わり前の男子に歌わせたなぞの代物だった。(2017/9/17追記)
・伊計島だったかと思うが、ドライブの名所で一番奥のところにリゾートホテルがあった。通常の観光客は駐車料金を取っていたが、沖縄在住者だと無料だった。(2017/9/17追記)
……この時期は「ちゅらさん」などで沖縄ブームが爆発する前で、年間の観光客が400万人台(2016年は860万人以上)。観光客でまともな飯屋はすべて激込みという現状よりは、観光客の行動体系が「平和学習」「リゾート」「社員旅行」「それ以外」というシンプルな区分けがなりたつ状況だったような気がするが、全体の雰囲気の認識は後付けの知識でいくらでもすりかわるので、まあ何かのネタ帳になればということで認識している事実に限りメモしておきます。
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