【今更で恐縮です】ボリビア音楽普及に尽力された方についての個人的な思い出&追悼
今更の文章で恐縮でございますが、6/22に亡くなった福岡稔さんについての記憶を少々。(どんな方だったかはこちらから)。前提として、謹んでお悔やみ申し上げます。
●初めて会ったのはたぶん1989年の5月かそこら。自分は大学の1年生の時には、氏が営む楽器店&ボリビア音楽普及拠点の「ボリビア」に行っていなかったので、2年生のときに「1年生を連れて楽器を買いに行くツアー」へ同行したのが初めてであった。新松田まで船橋から向かったが、小田急線はなぜ日曜午前の下りも座れないのかとかつまらないことを考えていた記憶がある。
新松田に到着後駅前の「マニラ食堂」とかいうどうしようもない大衆食堂でご飯を食べてバスに訳も分からず乗る。びしびしと山の中に連行され、前年初めて行った川俣町の記憶とともに「フォルクローレ関連スポットはバスで山に分け入らないとだめなのか」という印象が強化される。(まあ日本で普及しているフォルクローレは「山の音楽」だからその印象は間違いではないのだが)
当時は自分のいた大学サークルは活動活発な2期上、人数がいた1期上からみて「底値の世代」だったため、福岡さんが私のことを「自分の大学で活動せずに楽しんでいる」と言っていたという話を漏れ聴いていて、正直印象は良くなかった(ただ今から考えれば、その前から、そのころから、そして晩年まで氏は学生フォルクローレシーンの人物について分析していたわけで、こんなに真摯な先行世代のフォルクローレ関係者はいない)。
そこに行くと、だいたいみんなアハユの歌口回りだけ赤くあとはクリーム色の「国鉄急行色(キハ58系)」ケーナ(音はそこそこ出るがピッチや音質はいまいちだった。ただ口当たりのいいケーナでなく現地のケーナをいきなり使うのは組織としては相当の修業的効果はあったと考えている)を買うのだが、自分は何も買わず「ピントスケーナ最高」とかノートに書く大人げなさをいかんなく発揮してきた。
(ちなみに当時の自分の同期は、ケーナを多少本気でやりだすとアドリアンのケーナを買っていました)
とにかく遠いのでその後学生時代に氏の元にあまり通った記憶がない。
●卒業後札幌勤務とはいえ月1で首都圏に戻っていたのだが、そんな時期から氏の店に顔を出し、氏と話をするようになった。そして氏の印象は大幅に改まっていった。
・とにかくボリビア音楽を広めるために、特に影響力を持つ就職先に就職した学生OBOGを把握していた(例:マスコミ業界、など)
・自分なりにボリビア音楽を聴いて論拠を持って感想を言うと、ボリビア音楽を聴きこんだ人間として共通の言語を探してかなり真摯に受け答えしてくれた(そういう人は昔も今も多くない、特に自分より年齢が上の方においては)
・演奏レベルをないがしろにして話すことがなく、演奏レベルが一定の人のことをきちんと重んじていた
……私の率直な感想だが、氏はどう控えめに評価しても、南米音楽業界で実は相当の演奏者割合を持つにいたっているボリビア音楽普及に最大の貢献をした人物だが、特にキャリアの後半においてそれにふさわしいリスペクトをこの音楽関係者の万人から得ていたとは言い難い。
それは上に挙げた項目を忠実に履行する、自分のミッションに対する筋の通し方(逆のタイプの人をコテンパンにやっつける傾向はあったらしい)によるところかというのが推測であるし、リスペクトしない人にも明確に理由なり事情はあるのでそこをどうのこうのいうのも妥当ではない。
しかし私にとって、「自分の目的のために評判を気にせず自分の道をやり切る」スゴイ人物という評価は、ベースとして変わらないものであった。
最後に氏のところで楽器を買ったのはたしか吉祥寺の小学校そばにあった店で、現在も使用しているチャフチャス(We will Rock Youで振り回している爪ベースの打楽器)を買った。アハユのチャフチャスで、「これはボリビアの有名チームも使っているやつで」とおっしゃっていたのに、「ほーん」という感じで思い切り振りまわして「これ頑丈そうですね」と言って買ったときは、あまりいい顔をされていなかった。(そりゃそうだ)
●氏と友達でもなく忠実な弟子でもなく取り巻きでもないので、自分としては「遠くから尊敬している」レベルの対象だった。体調不良の話を聞いてはいたがいつもなんとか復帰されるので、今回も…と思っていたのが正直なところ。
●福岡氏やコスキン・エン・ハポンの創始者である長沼氏について思うのは、たとえその人物に反発を覚えたとしても、反発からアウフヘーベンできるだけの度量や凄みを持った人物と直接コンタクトできた幸運についてである。
反発しながらでもその存在を受け止めさせることで周囲を成長させるタイプの人は、近年絶滅危惧種であり(自分もそこまでの器量を持てていないという反省はあります)、本当に感謝しかない。
特に「音楽的に厳しいことを言える」という福岡氏の厳しさを、全肯定しないにしろその厳しさをどこかで認知することを人前で演奏する人間としてわきまえていれば、近年某SNS上などで跋扈している「音楽を深いところで舐めていて(なんJ用語)その不勉強さをベースにした厚かましさで他人にマウントする」たぐいの輩を抑制できるのに、という思いを禁じ得ない。
(不勉強であることは人それぞれの事情があるので仕方がないケースも多いですし自分も明確に不勉強な領域はありますが、不勉強であるという事実を認識した上でのいくばくかの自己抑制と、その反転攻勢としての攻めの姿勢なり自分なりの分析・対策なりはほしいところ)
ただそういう話をしてもどうしようもないので、(別に他人のことをつぶすとかが目的ではなく)福岡氏に教わった厳しさのかけらでも自分が演奏で表現できるか、今後も自分の道を精一杯やりたいと思います。
●最後に書かなくてもいいことですが、本来福岡さんの最高傑作であったはずの木下尊惇氏のミュージシャンとしてのリブート(再起動)を本当に期待したい。
もう一旗、ボリビア音楽の前線にいた人としての凄みを揚げてほしいと切に願います。
……末尾になりますが、特にTAKUYA&YOSHIOを無条件で色物扱いを当初からしなかった氏の公平さのおかげで音楽活動できた側面もあります。本当に有難うございました。面汚しになるかもしれませんが今後も頑張ります。
2018年7月15日 YOSHIO 拝
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