2018.07.15

【今更で恐縮です】ボリビア音楽普及に尽力された方についての個人的な思い出&追悼

今更の文章で恐縮でございますが、6/22に亡くなった福岡稔さんについての記憶を少々。(どんな方だったかはこちらから)。前提として、謹んでお悔やみ申し上げます。

●初めて会ったのはたぶん1989年の5月かそこら。自分は大学の1年生の時には、氏が営む楽器店&ボリビア音楽普及拠点の「ボリビア」に行っていなかったので、2年生のときに「1年生を連れて楽器を買いに行くツアー」へ同行したのが初めてであった。新松田まで船橋から向かったが、小田急線はなぜ日曜午前の下りも座れないのかとかつまらないことを考えていた記憶がある。

新松田に到着後駅前の「マニラ食堂」とかいうどうしようもない大衆食堂でご飯を食べてバスに訳も分からず乗る。びしびしと山の中に連行され、前年初めて行った川俣町の記憶とともに「フォルクローレ関連スポットはバスで山に分け入らないとだめなのか」という印象が強化される。(まあ日本で普及しているフォルクローレは「山の音楽」だからその印象は間違いではないのだが)

当時は自分のいた大学サークルは活動活発な2期上、人数がいた1期上からみて「底値の世代」だったため、福岡さんが私のことを「自分の大学で活動せずに楽しんでいる」と言っていたという話を漏れ聴いていて、正直印象は良くなかった(ただ今から考えれば、その前から、そのころから、そして晩年まで氏は学生フォルクローレシーンの人物について分析していたわけで、こんなに真摯な先行世代のフォルクローレ関係者はいない)。

そこに行くと、だいたいみんなアハユの歌口回りだけ赤くあとはクリーム色の「国鉄急行色(キハ58系)」ケーナ(音はそこそこ出るがピッチや音質はいまいちだった。ただ口当たりのいいケーナでなく現地のケーナをいきなり使うのは組織としては相当の修業的効果はあったと考えている)を買うのだが、自分は何も買わず「ピントスケーナ最高」とかノートに書く大人げなさをいかんなく発揮してきた。
(ちなみに当時の自分の同期は、ケーナを多少本気でやりだすとアドリアンのケーナを買っていました)

とにかく遠いのでその後学生時代に氏の元にあまり通った記憶がない。

●卒業後札幌勤務とはいえ月1で首都圏に戻っていたのだが、そんな時期から氏の店に顔を出し、氏と話をするようになった。そして氏の印象は大幅に改まっていった。

・とにかくボリビア音楽を広めるために、特に影響力を持つ就職先に就職した学生OBOGを把握していた(例:マスコミ業界、など)
・自分なりにボリビア音楽を聴いて論拠を持って感想を言うと、ボリビア音楽を聴きこんだ人間として共通の言語を探してかなり真摯に受け答えしてくれた(そういう人は昔も今も多くない、特に自分より年齢が上の方においては)
・演奏レベルをないがしろにして話すことがなく、演奏レベルが一定の人のことをきちんと重んじていた

……私の率直な感想だが、氏はどう控えめに評価しても、南米音楽業界で実は相当の演奏者割合を持つにいたっているボリビア音楽普及に最大の貢献をした人物だが、特にキャリアの後半においてそれにふさわしいリスペクトをこの音楽関係者の万人から得ていたとは言い難い。
それは上に挙げた項目を忠実に履行する、自分のミッションに対する筋の通し方(逆のタイプの人をコテンパンにやっつける傾向はあったらしい)によるところかというのが推測であるし、リスペクトしない人にも明確に理由なり事情はあるのでそこをどうのこうのいうのも妥当ではない。

しかし私にとって、「自分の目的のために評判を気にせず自分の道をやり切る」スゴイ人物という評価は、ベースとして変わらないものであった。

最後に氏のところで楽器を買ったのはたしか吉祥寺の小学校そばにあった店で、現在も使用しているチャフチャス(We will Rock Youで振り回している爪ベースの打楽器)を買った。アハユのチャフチャスで、「これはボリビアの有名チームも使っているやつで」とおっしゃっていたのに、「ほーん」という感じで思い切り振りまわして「これ頑丈そうですね」と言って買ったときは、あまりいい顔をされていなかった。(そりゃそうだ)

●氏と友達でもなく忠実な弟子でもなく取り巻きでもないので、自分としては「遠くから尊敬している」レベルの対象だった。体調不良の話を聞いてはいたがいつもなんとか復帰されるので、今回も…と思っていたのが正直なところ。

●福岡氏やコスキン・エン・ハポンの創始者である長沼氏について思うのは、たとえその人物に反発を覚えたとしても、反発からアウフヘーベンできるだけの度量や凄みを持った人物と直接コンタクトできた幸運についてである。

反発しながらでもその存在を受け止めさせることで周囲を成長させるタイプの人は、近年絶滅危惧種であり(自分もそこまでの器量を持てていないという反省はあります)、本当に感謝しかない。

特に「音楽的に厳しいことを言える」という福岡氏の厳しさを、全肯定しないにしろその厳しさをどこかで認知することを人前で演奏する人間としてわきまえていれば、近年某SNS上などで跋扈している「音楽を深いところで舐めていて(なんJ用語)その不勉強さをベースにした厚かましさで他人にマウントする」たぐいの輩を抑制できるのに、という思いを禁じ得ない。
(不勉強であることは人それぞれの事情があるので仕方がないケースも多いですし自分も明確に不勉強な領域はありますが、不勉強であるという事実を認識した上でのいくばくかの自己抑制と、その反転攻勢としての攻めの姿勢なり自分なりの分析・対策なりはほしいところ)

ただそういう話をしてもどうしようもないので、(別に他人のことをつぶすとかが目的ではなく)福岡氏に教わった厳しさのかけらでも自分が演奏で表現できるか、今後も自分の道を精一杯やりたいと思います。

●最後に書かなくてもいいことですが、本来福岡さんの最高傑作であったはずの木下尊惇氏のミュージシャンとしてのリブート(再起動)を本当に期待したい。
もう一旗、ボリビア音楽の前線にいた人としての凄みを揚げてほしいと切に願います。

……末尾になりますが、特にTAKUYA&YOSHIOを無条件で色物扱いを当初からしなかった氏の公平さのおかげで音楽活動できた側面もあります。本当に有難うございました。面汚しになるかもしれませんが今後も頑張ります。

2018年7月15日 YOSHIO 拝

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2018.07.06

【記憶の森】1990年代のオウム真理教について記憶しているいくつかの私的事柄

本日オウム真理教の麻原彰晃や関連人物が処刑されたという一報を聴き、記憶のバックアップに。
自分のどうでもいい記憶を書くだけですが、まず被害を受けた関係各位に改めてお見舞いとお詫びの気持ちを伝えたいと思います。

1、麻原彰晃と私が会話した(?)テレビ上のできごとはこちらを参照ください。

この番組を受けて信者が増えたという批判を後日聴きました(自分の質問を無視した幸福の科学に比べ、やや知的に生意気な若者が聴きやすそうなトーンで話した麻原の魅力が目立った)が、自分としては詫びても仕方がないですが事件の被害者などに詫びるしかない気分です。

2、私は1990年代の数年間、巣鴨のとげぬき地蔵にある編集プロダクションで働いていた(当時よく古奈屋本店に通っていた。周辺は市場があった関係で下品だが旨い中華や、すっぽんの三浦屋などそこそこなグルメ的スポットがありました。ヤツメウナギの店に行くのは贅沢な年数回の楽しみでした)のですが、そのプロダクションの元社員でオウム真理教に入信して出家した人が2人いました。(私が入社前に2人とも辞めていました)

伝聞の話ですが、共に教材編集者だったのですが、1人はマンションを財産として寄進したところ教団出版物の編集をしていて、1人は寄進する者がなかったため上九一色村の施設造成の穴掘りをしていたとのこと。

地下鉄サリン事件の当日朝に職場に「オウム真理教への弾圧が始まっています」というFAXが届き何事かと思ってテレビを見たら事件が起こっていました。

社長が「最近『会いませんか』と誘われて、南青山だかの本部に来るように言われて怖いから断ったところだったんだ」という話をし出してびっくりした記憶があります。

事件のおそらく1、2か月後に巣鴨署だかの公安刑事的な人が来て質問して回っていました。アジトと勘違いされたようです。名刺には電話番号と名前しかなく、去り際に「みんな整形してんじゃないの」と嫌みを言っていました。

ちなみにこの編集プロダクションで働いていた同僚には、アダムスキー型円盤のコピーを大量に取ったり旧飯野町の某施設に掲示されていた写真を撮影したりしていた女性がいましたが、私の退職後ヘール・ボップ彗星が来るので退職したそうです。
他の社員はもとより、職場としては非常にまっとうなところでした(ここを辞めたのは自分の判断としては悪いほう=後悔はしないものの)が、職場とは無関係にこれらのエピソードは自分も含め二線級の知的な若年層の自我と社会の一員としての判断力の弱さを感じさせる契機にはなりました。

……以上がささやかな20年前レベルの記憶です。何か差しさわりがある場合は削除しますが、読んだ方の判断材料のひとつにでもなれば幸甚です。記憶のバックアップにお付き合いいただき申し訳ございません!

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2018.01.26

どうでもよい記事(20180126、ある人物の訃報を聞いて思い出したこと)

私は一度だけ「朝まで生テレビ」の観覧に行ったことがあります。
そしてこれがおそらく日本の地上波での現在唯一の出演機会でした。
(アルゼンチンでは2013年にコスキン音楽祭に出た際、演奏を地上波中継いただきましたが)

確か麻原彰晃が生出演していた回で、宗教系の人が観覧希望が多すぎることが想定されたための、草食系サークルからの仕込み要員でした。(三国志研究会)

この時には「幸福の科学」対「オウム真理教」という感じだったのですが、宗教系の人特有のかみ合わない話とどうでもいい宗教系および非宗教系問わず狭量な熱を帯びた発信が延々となされる中、狭いスタジオの狭い観覧席で暑くて眠くて仕方がなかったです。

トイレに行ったら、栗本慎一郎氏とこの間亡くなった西部邁氏が連れションしていて「さっきのあなたの発信だけど」と後者が前者を詰めているのが聞こえました。

2回目だかの休憩の前に、田丸美寿々氏と目があったところ「君、質問しましょう」と言われました。

CM明けだかに手を挙げるよう言われ渋々質問した内容が、「なんで宗教の人はそんなに自信満々なのですか」という、非常に言葉が足りないものでしたが、宗教系でない観覧者のほぼ本音ではあったかと思います(ここは浅羽通明氏の地下新聞的な同人誌でも指摘がされていました)。

これに対して幸福の科学サイドは答えず、麻原彰晃が「それは自分たちで独自の修行をした結果です」と、まあ宗教系としては無難な回答をしていました。

そこで西部氏に「宗教の人に自信がある理由を聞くのは、近代の悪しき懐疑主義だ」と決めつけられて、私が納得していない表情をした様子が写っただけで、反論する時間もないまま、次の展開となりました。

…西部氏の言うことは妥当でしたが、彼には私も含めた鰯の群れのような、生き抜くために動く大衆が知性を抹殺するような動きに対応することも難しかろうな、と思ったものの、それを言語化する機会はありませんでした。

後日談としては、ゼミの先輩に「西部にやり込められてたな」と叱責されたり、見知らぬ人の間で「あいつも宗教系っぽかったな」という讒言があったりという一方で、「本音を言ってくれてありがとう」という賞賛もあったなはずです。(なんせ昔の話)

ちなみに謝礼は弁当とポロシャツで交通費も出ませんでした。

西部邁氏の業績などについては、鰯の群れからも脱落しそうな鰯としては論評することは難しいですが、反時代的な思想というものを抱くのも大変だなとだけは、死亡の際のニュースなどに接した際の感想として申し上げます。

以上取り留めもない感想でしたが、記憶の外部バックアップとして書かせていただきました。

(追伸)このときテレビに出た私は、当時今より30キロ以上少なかったのに、実物より太く見えたようです。
田丸美寿々氏の脚が想定よりはるかに細く、性的な意味抜きでびっくりした記憶があります。
私としては、もし演奏者としてテレビに出る機会があったら拒まないでしょうが、今の体型だとふなっしーと勝負!というレベルなので、なかなか難しそうです。

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2017.09.07

【記憶の森】1998年の沖縄に関する私の細かすぎて役に立たない記憶

唐突に新企画記事です。

9/5に「私の最高の×××」というタイトルでMCをする縛りが入ったことをきっかけに、ふと思い出すことが多かったので、標記の事項についてどうでもいいことをメモ的に書いてみます。

この年は、諸般の事情で1年で20000マイル貯めるぐらい東京沖縄を往復していました。
現地では人の車に乗せてもらう以外はバスで移動していました。(モノレールはまだない)

もちろん私の記憶が消滅する前に、という残念な事情もあります。
ではばらばらと。事実誤認が判明しだい訂正します。

・人生初沖縄であった1998年2月に名護に宿泊。ホテルゆがふいんおきなわが日本ハムファイターズのキャンプに使われていたので名護キャッスルホテル(たぶん、古めかしいがアメリカーな感じのホテル)に宿泊。マスコミが同宿していて木佐アナウンサーが朝食の際に「上田監督の散歩が」とかいう話をスタッフとしていた。

・同出張は本部町の海洋博公園がらみの仕事。1泊は取引先の紹介の民宿だったが、急須がブリキ的な素材、机は折り畳みというヤバい感じで、シャワー付きの特別室だったがカビまみれ。浴槽的なものは各フロアの外階段に置いてあったが使われていなかった。朝食のポーク炒めが死ぬほど薬物臭がキツく半分残す事態。

・同宿を脱走しベルビューというホテル。きれいでよかったがバスルームと寝室の仕切りが透明ガラスといういかにもラブホ転用な作り。

・業務終了後本部から名護までタクシーに乗り、タクシーで「今日中に那覇に戻りたいです」と運転手に相談したところバスターミナルの入り口のところで出発しかかっていたバスを止め乗るように手配してくれる。有難かったがバスに乗る前に食べ物を買おうという構想が崩れ、すでに高速バスもなくなった時間のため2時間以上ホールズをなめて空腹をしのぎながら路線バスで移動するハメに。バス運転手には「帰省かい、大変だね」と話しかけられたが腹の足しにはならずあいまいな回答しかできなかった。

・当時CoccoやKiroroが大ブレイクしていたが、前者は基地外扱い、後者はまんべんなく愛されている感じだった。どこかでインディーズ時代の音源を必ず聞かされた。キーボードがベロベロ。

・自販機ではレモンティーの人気が他の紅茶を圧していた。安めの食堂で、粉末を溶かしたようなレモンティーを無料で飲ませる店があった。

・Aサイン系のちょっと高そうなステーキハウスにノンアルコールカクテルがあり、店の重たい昭和的ゴージャス感を追求した雰囲気のわりにおしゃれ感ありで印象に残っている。

・タクシー運転手の人間力がすごいが、不味い方向に行くと「風俗店(ちなみに通常24時までの経営だが、裏営業とかでなく「地域特性による管区の警察トップによる判断」(店員談)で28時までの営業がおおっぴらになされていた)などへタクシーで行くとマージンを抜かれ高くなる(それを避けて店が迎えにくる)、観光客と見ると容赦なく回り道」などの、(ススキノまわりでもあるが)雲助系になる。あとホテルが呼んでいるわけではないのにホテル前待機している車もやばいので、なるべく道で流しを拾うようにアドバイスされる。

・県立博物館が首里にあった。県外から来客が来ると県立博物館に行く習慣があるっぽかった。

・「琉球酥本舗」という菓子店がパレットリウボウにあり、これが県内での手土産菓子としては最高級と言われた。

・沖縄市泡瀬地域に大ラブホテル街があり、車でしか入れない。免許を取るとここをドライブする高校生が多いとの話。「たぬき」というホテルが伝説的に古めかしく笑いの対象となっていた。

・親戚が獲ってきたマグロ、というものを人の家で食べた。

・那覇市小禄地区が、新興住宅地でちょっとおしゃれと言われていた。

・佐敷町のあたりは顔の濃い美女が多いと言われていた。

・すぐ隣で雨と晴れが分かれる気候が多く58号線で宜野湾手前でスコールに遭うと「大謝名あたりは晴れている」とか言われ狐につままれた気分となった。

・模合という頼母子講みたいなのがあり、これにいくつか入るのが「正しい市民」としての信頼がある証明のようであった。若者だと同窓会的なものを兼ねる感じ。文具店で模合用の集金袋を販売していた。

・冬には国際通りを暴走族が疾走し夜中うるさかった。

・沖縄第一ホテルという那覇市安里にあったホテル(2017年現在では牧志に引っ越しているそうです)で、沖縄の食材を使った豪華かつ健康によい朝食というのを売りにしていて、2500円以上したが、観光客だけでなく地元の金持ちそうで意識高そう、つまり上流階級な感じな婦人たちが愛用していた。

・A&Wというハンバーガーショップの牧港店で「駐車場で注文し運んでもらって車内で食べる」という形態の店があった。地元のやや「意識高い」若者にはモスバーガーの人気が高かった。

・知り合いの知り合いぐらいで幸福の科学にはまって書籍を大量に配っている人がいた。

・「失業率●%」というステッカーが主要通りの道筋にたくさん貼ってあり怖かった。たしか選挙がらみのキャンペーン。

・那覇空港が小さくて妙に薄暗く、東南アジアの地方空港っぽかった。水槽が置いてあった。

・「ちんだみ工芸」とかいう三線の店が国際通り沿いにあり、三線の無料体験をしていた。2回行ったが那覇市出身の大学生(首都圏に通学)と一緒になったときは、明らかにそちら優先だったがこちらにも炒め物をふるまってくれた。ここで買ったCDは工工四つきだったが、声変わり前の男子に歌わせたなぞの代物だった。(2017/9/17追記)

・伊計島だったかと思うが、ドライブの名所で一番奥のところにリゾートホテルがあった。通常の観光客は駐車料金を取っていたが、沖縄在住者だと無料だった。(2017/9/17追記)

……この時期は「ちゅらさん」などで沖縄ブームが爆発する前で、年間の観光客が400万人台(2016年は860万人以上)。観光客でまともな飯屋はすべて激込みという現状よりは、観光客の行動体系が「平和学習」「リゾート」「社員旅行」「それ以外」というシンプルな区分けがなりたつ状況だったような気がするが、全体の雰囲気の認識は後付けの知識でいくらでもすりかわるので、まあ何かのネタ帳になればということで認識している事実に限りメモしておきます。

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